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  出湯温泉歴史年表
目次 ★出湯温泉妙景 
★散歩道その1             
★散歩道その2(句碑探索)

 ★五頭山登山  ★PEOPLE  ★ゆきふるさと
  ★外湯めぐり

作成協力:

川上 貞雄 氏
 日本老古学協会会員、笹神郷土資料館監修主事、県内の老古学研究の第一人者。出湯温泉在住。

笹神村郷土資料館

参考文献

 笹神村郷土研究 第25集
  川上貞雄 著
 笹神村郷土研究 第27集
  川上貞雄 著
 笹神村郷土研究 第22集
  山川富衛 著

 新潟県温泉誌 昭和8年刊行

 その他、古文書状資料

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年表 文責 弓月 斎藤

年表の無断転写等はお断りいたします。

 縄文〜室町時代まで
 (寺湯信仰としての温泉地)

◎縄紋時代
 自然湧出の古湯(現:共同露天風呂 源泉)付近にて土器数点発掘。

有史以前に温泉があり原住民が住みついていた可能性が高い。

◎奈良時代

天平5年(734)
 
行基菩薩 来村。
  海満寺(現:出湯 華報寺)創立
  羽黒 優母尊製作

◎平安時代

大同3年(810)
 弘法大師 空海上人 来村
  五頭山 開山

1132年
 出湯温泉のある笹神地域は
 当時,「白河庄」と称され、
 藤原九條家に伝領された。
 九條家の命を受け
 城 長茂が開発領主にはいる。

この頃、藤原九條家の菩提寺
京都:東n宸フ関係から
僧侶を招き
海満寺(現:出湯 華報寺)が創建された説が有力である。当初より温泉は利用されていたようである。

◎鎌倉時代

城 長茂一族に変わり
源頼朝の命を受け
伊豆の豪族 大見 家秀が
「白河庄」の地頭にはいる。

海満寺(現:出湯 華報寺)
大見氏の菩提寺となる。

荘園領主:藤原九條家の息のかかった
寺院であり、地頭大見氏の厚い庇護のもと
山を階段状に切り崩し整地して本坊の他、四院三十二坊がある壮大な寺院となっていく。

現在の出湯温泉の階段状の地形はこの頃に形成された。

当時は現在の出湯温泉地内は
全て寺院が立ち並び、僧侶以外の
村民は現在の出湯駐在所後方のあたりに集落をかまえていた。

1230年?頃
 無関普門禅師(大明国師)来村。

 無関普門が幼年期過ごした
 村松町:正円寺僧:寂円は
 大見氏の出であり寂円は叔父に 当る

 当時の寺主 本智和尚
 無関普門禅師の聡明さに驚き
 その席を譲る。

1284年 弘安6年
「越後文書:行定書状」のなかでは
出湯温泉は「温川条」と呼ばれていた。

明治14年浴場改修工事時に温泉井戸(現:華報寺共同浴場源泉)
より鎌倉様式銅製仏像、仏具、唐銭
など出土。

永仁5年 在銘経筒 
 1759年出湯 薬師堂近くより
 出土 (現在所在不明)

永仁7年 「南無阿弥陀仏名号板碑」
 宗祖一遍流の草書体に書かれた
 板碑にみる日本最古のもの。

正安元年 在銘経筒
 1963年 出土

蓮台野(現:出湯温泉南側)より
多数の鎌倉様式石仏群 発見。
その数体は北方文化博物館にも
展示されている。

1238年 
 北越風魔 暦仁の大火災

1300年頃
 目洗沢(現:出湯 華報寺南側)
 高阿廟址 とよばれる礼拝所と
 在銘の出土品が明治39年発見
 県指定文化財。

 寺伝記がこの頃残される。

「白河庄」の地頭 大見氏は
水原氏,安田氏、山浦氏に分家し
それぞれの地頭をおく。

◎南北朝時代

鎌倉幕府の衰退と共に大見氏の
勢力が減少し、壮大な寺院を誇った海満寺も減少していく。

◎室町時代

文明九年 (1477)

 村上市 耕雲寺六世大庵梵守和尚、
 荒廃していた海満寺を再興し
 華報寺と名称を改める。

  江戸時代〜現在まで
(旅館の形成と保養の温泉地)

◎江戸時代
 初期頃 
 海満寺(現:出湯 華報寺)の
 衰退に乗じて村下にいた住民が
 寺湯近くへ移動し住処を構える。

宝永4年 (1707)
 出湯には華報寺のほか
 十四軒の住民がいた記録があり
 民宿的な宿をしていたようであ  る。

安永7年5月 (1778)
 温泉税(現在の入湯税)の
 支払いが行われた。
 

 中〜後期

 1835年 自然湧出の第2の
 源泉発見。目洗場と称す。        出湯温泉
 共同露天風呂の源泉。

 華報寺門前に旅籠が軒を連ね
 門前町の様相の温泉街ができ  る。

 国道290号からの現在の温泉街入り口通りもこの頃できる。

 弘法大師ゆかりの温泉として
 多くの湯治客で賑わいを見せる。

◎明治時代

 明治14年 華報寺寺湯改築。
 「漲泉窟」とよばれ木造の
 西洋舘つくりの当時としては
 しゃれた作りであった。
 「角屋」「白根屋」が寺湯となりに
 移り本格的な宿の形態を造る。

 この頃より県内有数の温泉地とし て
 多くの文人墨客が訪れる。 

 明治16年 旅館一覧 十二軒

 ・川上貞吉・小林兵吉・徳右衛門
 ・福蔵・熊太郎・甚右衛門・太郎右衛  門・辰右衛門・善兵衛・清野善四郎

 明治17年

  目洗場の源泉を使い
  天然病院「洞春舘」開業。
  その1棟は陸軍病院として使わ  れた。

◎大正時代

 大正8年
  村杉温泉と共同でフォード社の
  オープンカーで温泉バスを走ら せる。新潟県で2番目の乗合バス であった。

◎昭和時代

 昭和3年 出湯ではじめての
 温泉掘削。翌年「新湯共同浴場」 としてオープンした。
 (現:弓月前)

 昭和8年 旅館一覧 十四軒

・洞春舘・角屋・白根屋・兼清・大石屋
・珍生舘・清水屋・みなもとや・唐橋屋
・中喜屋・川上イト・石水屋・荒木や

 昭和28年

 株式会社出湯温泉発足。
 新たに源泉を温泉掘削し
 共同浴場を新設。(現:新湯共同浴場)

 これにしたがい昭和3年にできた
 「新湯共同浴場」は閉鎖した。

 昭和35年〜40年代

 数カ所で温泉掘削。
 これにより源泉所有の
 温泉旅館が増える。

 昭和45年〜50年頃
 芸者置屋の数が県下で2番目の多さとなるが、となりの月岡温泉の近代化 を横目に観光開発も無く
のんびりとした田舎の温泉として
主に地元客中心の経営であった。

 昭和54年
 新たに7つの源泉井戸が
 新潟県より「温泉許可」をうける。
 これにより出湯温泉の源泉は
 10箇所となる。

 昭和55年頃 旅館一覧 

・中喜屋・大石屋・静廣舘・清水屋
・新せい舘・葉山・石水亭・五頭山荘・弓月

◎平成時代

 村杉温泉,今板温泉と共同で
 五頭温泉郷旅館組合発足。
 

平成14年 元旦
 テレビ朝日系で出湯温泉より
 2時間ほど全国生中継。
 有史始まって以来、最大の
 イベント。
出湯温泉共同露天風呂オープン。
 源泉はかつて縄文人が使ったと思われる自然湧出の古湯を使用。
2006年10月その役目を終え閉鎖

平成20年2月 50年ぶりに
出湯温泉共同浴場が建替えられ
新装オープン。