2009 NHK 大河ドラマ「天地人」
直江兼続と出湯温泉
「天地人」ブームに沸く新潟県ですが この五頭では今ひとつ盛り上がりに欠ける感があります。
しかしこの五頭山稜一帯は 上杉景勝・直江兼続が7年越しの激戦を繰り広げた地であり
のちに「新発田合戦」とよばれる まさに歴史のいたずらに命運を天にあずけたような戦いで
景勝が拠城として陣を構えたのが 五頭温泉郷よりわずか1里あまりの篠岡城(現;笹岡城跡)
だったのです。
謙信公亡き後 「御館の乱」で兼続らの活躍により跡目を継いだ景勝でしたが
その恩賞問題(毛利秀広に直江信綱が殺され後に兼続が直江家の跡に入る要因になりました。)と
兼続達を重臣のおく統治に不満をもつ新発田重家が反乱を起こし新潟津 沼垂を占領します。
(裏で織田信長の陰謀があったと言われます。) 天正10年(1582)景勝は篠岡城を拠点として
新発田攻めをおこないますが 織田 そして会津 芦名からも支援を受けた新発田勢は手強く
法政橋の戦いで水原満家など討死に 逆に水原城を占領されてしまいます。さらに甲斐・武田家を
滅ぼし勢いに乗る織田の大軍が上野 信濃 北陸より越後攻めをおこないます。
ついに北陸の上杉の要塞であった魚津城が落城。
まさに窮地にたたされた景勝でしたが もはやこれまでかと思われた矢先
本能寺で信長が明智光秀に暗殺されます。九死に一生をえた景勝は 織田軍が引揚げた後の
北信濃を制圧、謙信公以来の宿願を果たします。
また北陸に勢力があった柴田氏と信長の後継者争いをしていた羽柴秀吉と同盟を結び、
秀吉が天下をとるとすかさず上洛、忠義を誓いました。
秀吉の支援をうけた景勝は天正15年(1587)8月 1万の軍勢で本格的な新発田攻めを開始。
会津からの支援を断つため赤谷城を落とし10月24日兼続の活躍で五十公野城を落城。
(野火を使った兼続の戦略は後の世まで語り継がれています。)
翌日 新発田城も落とし、重家の自刃によりついに7年越しの戦いが終わりを告げました。
写真は「篠岡文書」と呼ばれ 天正10年10月5日 景勝が 篠岡城を守る
須佐(光頼)大隅宛に送った書状です。思うように戦いを進められない状況が窺われます。
篠岡城は地方の小さな城でした。上杉の軍勢をすべて収容できたとは思えません。
おそらく軍兵の大勢は近隣の寺社に寄宿したことと思われます。中でも出湯温泉・華報寺は
格好の兵を休める場所であったことでしょう。出湯温泉は兼続 景勝が笹岡の地に陣を構えた時より
はるか古代から 弘法大師加護の湯として 越後随一の名湯のひとつとして広く知られていました。
兼続 景勝もそのことを知らなかったはずはありません。出湯の湯に浸かり 戦の傷と疲れを癒し
時には武運を祈り 出陣していったことでしょう。
(2009年3月12日 記; 弓月 主人)
旧笹神村文化財 笹岡城跡: 五頭温泉郷より車で10分
市営バス 阿賀野市役所行 笹神支所 下車 徒歩15分
弘法大師出湯温泉開湯1200年記念